二村ヒトシ
「なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか」
を読み終わった。
違和感あることと、なるほどなとおもうことと、あと10%くらい、「そうそう、それ!」ってことがあった。
大半は「ほほう、そうゆうことなのかしら?」だった。
ほんの中に、繰り返し「自己受容」という言葉がでてきて、それにたいして「そうそうそうだよ!」ではなく「ほほう」と思った私は、ようするにまだぜんぜん自己受容ができていないんだとおもった。そして、できていないから色々くるしいんだとおもった。
むかし、そう、自己受容できてる錯覚を上手に与えてくれたあの子が私のとなりに、いた。
もっと前からなのかな、私の家族も、自己受容の錯覚を上手に私に与えてくれていたよ。
すごいね、すてきだね、いいこだね、かわいいね、だいすきよ。
その中で私はきっといつの間にか、自分でも気づかない「インチキ自己肯定」をするようになったんだね。
あいラブミーとか言っちゃって、
半分は本当に出来ていたのかもしれない。全くできてなかったら、私の中からニシシが生まれることはなかったはずだから。
でも中途半端な状態のまま、だんだん崩れていっていたんだなとおもった。
崩れていくから、それを補修したくて、ますます自己受容から離れていく方向に、
好きになってくれた人を利用してなんとか安定したくて逆に不安定になって。
愛(と自分で錯覚しているエゴイズム)がないとなんだかおかしくなっちゃう人になっていたんだね。
それはきっと先に申したように、
かぞくや、私をとてもとても肯定してくれた人に恵まれたおかげで、自分で自分にちゃんとそれをすることを学習できていなかったんだね。
私はどう愛されたらうれしいか、いろんな人に教えてもらってきたはず。
だったら、それを今度は自分にむけてやってあげなくっちゃ、ね。
そしてそれでじゅうぶん自分で自分の歯車を回せるようになったら、
今度は人にも「気持ちの良い愛し方」をしなくっちゃね。