「めだまやき。」
目玉焼きの英語名;
sunny side upって天才的ネームセンスだ。
久しく目玉焼きたべてないなぁ。
他人に誇示したいわけでもなく
ただ自分の指針とか隠れ家とか己の正義として
その人のたゆたっている
その個人的世界のこぼれ出たものあるいはちょっとだけ覗かせてくれるもの
それが
見てて心地いいんだって
昨日思った。
GEISAI museumに行った
今まで作品を見るとなると、自分の好きなゲージツカの作品を選んで見ていたから、何が好きで何がそうでもないかなんてあんま考えたことなかったんだけど
なんだか
技術とか色使いとかそうゆうんでもなくて
いや
物理的にはそうなんだけど
その出力前の内部というか
手から作品になる前のその人の生きてる自己世界そんなようなのが
好きだと
その作品もすっごくドキドキしちゃうくらい好きになるんだ、と。おもったのです。
まぁですから、
その人が自己世界をね、愛してそれをホントに愛でてるなら(愛って甘やかすって意味じゃないよ)
それにともなった技術というか、適切な手法が自然と形成されるんだろう。
だから大切な譲れない、かといって他人に押し付けたりとかはしない、自分の世界ってゆうのをココロん中に抱えてる人のこぼれ出た片鱗としての作品にはドキドキしてしまうのだわ。
そういった自己世界はおそらく誰しも持っているものなのに、
身に付いた外部的物理的能力に内部世界を奪われた人や、
外部世界で生きることのみに気を取られて、内部に広がる自己世界に眼を向けられてない、
そんなような印象を受けたものもあったわけで
(ホントにこんなこというのは生意気だし自分だってそんなようなのの固まりなんだけど大切なことに気がついた気がするので書いていますが)
例えば
「こうゆう絵よく見るなぁ」とか
「こんなの描いてた人さっきも居たなぁ」っていうのは
必ずしもそうじゃないのかもしれないけど
ある程度において確実に外部世界にとらわれている。
もちろん完全に内部世界から生み出すのなんて無理なんだけどさ。
ああなんか書けば書くほど何かが分散してゆく
言ってしまえば
ゲージツカに限らずほんとにみんな、もっと、自己の内部世界の形勢にいそしめばいいのに
とおもったのです。
好きなものそうじゃないもの
どうやって生きたいか
譲れない正義は何か
自分の真ん中にスッと通るまっすぐな何かを持たずしてドウ生きるつもりだろう。
そのまっすぐな何かは生きていれば何回も何回も曲がったり消えそうになったりあるいは誰かに突然ボッキリと折られてしまうときだってあるんだけど
そのたびにそのたびに
ちゃんとまたまっすぐな何かを立て直して行かずして
ドウ生きるのか
曖昧にムヤムヤ甘やかしているからいつまでたっても自己嫌悪しなきゃいけないんだろ。
ヌルいことはヤメてくれ。