すげーよ

・・・一方、たがいに一時的の快楽、単なる本能の衝動の満足のみを求めた人々は、必ず空虚を味わわずにはいられないであろう。そこには喜びの願いも可能性もないからである。
 これは幻想を弁護するためにいうのではない。「本能の真理」より大きい情緒的発展を得るようにするという口実で、愛情の自己暗示をすすめるものでもない。偽りの上に立つものは、幻想的でしかありえない。
滅びるものであるにせよないにせよ、真なのは愛である。それが真実なのは、われわれ地上の生命が同じように滅びるものでありながら、真実であるのと同じである。永遠の生命を信じない人々でさえ、この人生は、さまざまの悲しみや苦しみがやってくるにもかかわらず、生きつづけるに足りるほどに美しくおもしろいと思うのが普通である。愛の場合にも、事情は同じではないだろうか。

愛の深層心理 X愛の消滅/イグナス・レップ



絶対者への内的なつながりなしに、真の個人の存在はありえない。/カール・ヤスパーズ


真に生きる人とは、自分の生命をよろこんで犠牲にしようとするものの存在することを認める人である。同様に、愛も、自らを犠牲にする価値のあるものを認めない愛は、真の永続性あるものとなる見込みがない。

愛の深層心理 X愛の消滅/イグナス・レップ



「情緒の発達が自己愛の段階で停止する」





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かれらは揃って超越的なものに向かうかわりに、相手を超越的な対象と見誤るのである。その結果は失望となり、おそかれ早かれ友情の破綻となるほかはない。
XI 友情の愛/イグナス・レップ

(↑ソーセキの「こころ」がまっさきにうかんだ。評論でカラタニもゆってたよね、おなじようなこと。)



「不特定の愛情という子供の段階」


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思想や理想、学問、祖国、人類、神などがわれわれの愛の対象になることも多い。
・・・
これら、「より高い価値」を、妻や友人、自分自身の命以上にさえ愛する人々がある。全生涯を学問や芸術にささげる人もあり、信奉する教えに殉じた人の名を挙げればきりがない。そのような、崇高な現実に対する優先的(排他的でないまでも)な愛の形を、精神分析家は昇華された愛とよぶ。