オフィッスカジュアルとは なんぞや。


きょうはイカツイ格好をしていたワタクシ。



好きなお洋服きて、好きな音楽きいて、てくてく歩いて(あるいは電車にゆられたりして)
ぼんやりと頭を使っているときこそ、 ワタクシ、 タリキトモエというものが、形成されていくなぁ と感じて、 その時間が、お恥ずかしながら、 トテモ好きなのだけど 


そうゆときに考えていたことって、頭の中だけだと、最高崇高エクセレントなことに思えるのに、こうゆうところで、さて、改めましてイチから説明しようとすると、妙だね、恥ずかしい稚拙でぶさいくな思想になってしまうんだから。


たぶんそれが本当で、

よく意識がもうろうとしている時に良いアイデアが浮かぶとか、寝る直前にひらめくとかいうけど、

もうろうとしているから、判断できなくなっているんじゃないかな ダメだ とか こりゃダサい、イカン、欠点がある といったことが。もうろうとしているとき、客観視できなくて、自分のなかだけのものでしかないものしか、考えられないじゃない。



なんかそうゆうふうにさ、


外に出すっていうココロミをしないかぎり、自分の産物は最高崇高エクセレントなことに思えてしまうのだわ。そして、自分自身も、ともすれば、最高崇高エクセレントなひとだと思ってしまうのだわ。



ひとりきりの遊びなら、それでじゅうぶん楽しいけれど。


それはやっぱりひとりきりの遊びどまりで、世間に向かって公表しないかぎり、世間にとっては、ゼロ、無、透明で目に見えないもの、ということだと おもう。




だからって、正確に表現して世間に公表しなさい と言いたいのではないし、そうしないと無駄だよ、って言いたいんじゃなくて



外に出すココロミと、その瞬間の、「あっれ、大したことねぇじゃん」感、をね、
定期的に感じなきゃ イカンなぁ 
先に述べた 最高崇高エクセレント 感の合間に、「あっれ、大したことねぇじゃん」感 をサンドして、 

感情の高揚と脳みその思考回路とが ごっちゃになって そのまま言語化されず神聖化されるのを 回避しないと

妙な自己肯定に 溺れるのだろう


と そうゆうことを 考えて


なかなかこれはいいぞ、と思って、いいぞ、と思ったので、外に出すために、ぶんしょうにして外に吐いてみました。

さてどうだろう。





おわり。