晴れた空や、若い樹や、いきいきとした街

谷川俊太郎
翻訳したアリスとかマザーグース
あとせいぜいヘンテコな詩しかよんでなかった!

すげーぞ!こいつ!

すげーーー!

ゴー俊太郎、ゴー!だ!

この人の心はすごいぞ!
好きだぞ!






ひょうげんしゃとして よりも ぼくがだいじにおもうのは

じゅしんしゃ


ひょうげんするのは


じゅしんしたあとだとおもう



それは 他のカルチャーを だけじゃなくて


他のカルチャー すきなカルチャー

 そのしげきでうごいた 

じぶんのこころを じゅしん


そしてその認識でうごいた

じぶんを取り囲む 世界 を じゅしん




なにをかんじましたか なにをおもいましたか

それから 世界の色彩は どうかわりましたか



それをすなおに まっすぐに まじめにしんけんに 一生懸命 ゼンシンゼンレイで かんじとって

なにをおもいましたか





それが じゅしんするということ





そうしたら じゅしんしたら それを 表現せずにはいられぬくらいあふれたら

それが ひょうげん ということであって それ以外 なにが

なにがひょうげんだと

なにがひょうげんだと




ただ ルックアットミー 的な姿勢

おれこんなことできるんだぜ とか こんなおれなんだぜ としての ひょうげんなんて

カルチャーのバトン渡しでしょう


それはキミはキミだと思ってるかもしれないけれど 君自身ではないと思うん で あり



もっと切迫した 感動 

もっと 

もっと




押し迫るような 「おれ」 の 発見と開拓 そこに立脚する 






あらがえずあふれでた必然のプレゼンテイションこそ 


表現



なのであって





なのであって








でもそんな表現は 表現したら 嘘になるくらい繊細で


だから



表現者 というのは たいがい 表現 しえない もので


いとも 表現してる ポーズを きめてるのは 


。。。





すごく個人的こういなんだ  ほんとの表現て  外側にむかわない

表現 という言葉の 矛盾だけど 


「表」
に 「現し」ようも ありませんや



自分自身の 再認識 つきつける 自分に そんだけしか そんくらいの リアルしか





ねぇそんなふうに おもったんだよ



おもったんだよ



おもったんだよ





それがきょうのぼくの

せっぱくした ひょうげん。


受信して あふれた ひょうげん。