さぁ 恋をこえろよ おれの恋

だざいの、ロマネスク、が、なんとなく楽しかった。

ロマネスク/太宰治
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/316_19983.html




ロマネスクとゆうお店の、新メニューの表紙とはがきをつくっている。
なんだか、ロマネスクDAY.


↑ジミーさんのシンボルマークを改造して「Menu」にしてみました。





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ここさいきん、図書館に行けば恋だの愛だの書いてある本を手に取り、
ヨノナカの人や哲学の先生方はどうあのCRAZY LITTLE THINGなるものを解釈してるのかしらん、
と、けっこう熱心に活字を追っかけ追っかけしたいたワタクシでありますが、


それこそ
「君を知らない人の書いた辞書に そんなの載ってないし」
というのか
恋を超えろ/毛皮のマリーズ


ようするになーんも分からないのである。

何が分かりたくてナットクしたかったのかも、そっからがまず分かんなくなってくるんだから、なぞ なぞ なぞ。




昔っから思っているのは
好きな事とか好きなものとかそういったものが、なぜ個人にとって大切かということを考えると、
それらはそれぞれ受動者に
「存在の肯定」ないし「存在の許し」
を与えてくれるからであると思っている。

ようは
ささやかなところでは音楽を聴いて「これ楽しー」とかであったり、
大きいところではジーザスの愛を感じる事やその他宗教への信仰であったり


で、こういったものの対象が個人になるのが、
ひとをすきになる
ことなんだろうと思うのだけど、

なぜだかとたんに、対象が「こいびと」とゆうものになると、
上記の
「存在の肯定」「存在の許し」
というものが
「あってうれしい」
ものから
「もっともっとほしい」
ものへと変化していく性質があるように思う。

もっと分かってくれる姿勢を見せてほしかったり
肯定してほしかったり助けてほしかったり たりたりたり

その他の対象だと、自分が高まって追いつきたかったり、
それそのものに満足してそれ以上は望まないのに



自分の方向へひきずりこもうという、
そうゆう性質があって・・・・・




・・・・・・・・・・・で、ここまで書いて、時間がなくなったので、今日はここまで。