こどものこと

lovely daughterが、顔をのぞき込まれるとよく笑うようになった。

はうあうー なんて言いながら、何を思っているのか、ひどく嬉しそうで、
その様子をじーっと見ていると、
じぶんは、こいつの 手や足とおんなじ こいつの動くパーツのいちぶなんじゃないかというような気がしてくる。

存在感、とゆうか、
存在力、かな、
きらきらわらって
この今を確実に生きているかんじが。
いのちのまっすぐさが。



もともとは、わたしのおなかの、いちぶだったこいつ。


おなかから抜け出てきたときに、何かを私の中から持って出てきてしまったのかもしれない。

それを持って行かれたから、立場が逆転して、

「わたしの一部」じゃなくて
「わたしが一部」になってしまった感覚がある。



たしかに、自分の食欲よりも、こいつの食欲への意識が高い。

排泄物の処理も自分のをやる時間よりこいつのを処理してる時間の方が長い。


とにかく自分のことよりこいつに向けられる時間や意識のほーが断然でっかいのだ。



おうちの生活は、宗教の洗脳合宿みたいだ。



生き物の中には、たまごや子供を産むと親は死んじゃうってのも居るくらいだから、

種族としての個体なんてそんなもんなのかもしれない。



「まだお母さんにならなくて良いんですよ、時間をかけてゆっくりなりましょう。まだ昔の自分でいいんですよ」

と区の健康相談所で言われた。



うん、私は今、「何か」を持っていかれちゃってからっぽで、お母さんになっていないし、
でももう昔のじぶんでもない。


中身のない、いちぶ。

そんな風に思うときがある。






でもまわりは変わってないから、

わたしがいちぶになる前のじょうたいと思って接してくれるから、

もっともっとそうやって触れて下さいと思う。


からっぽじゃない私を教えてくださいとおもう。


もういちど集めて、中身を入れてあげなくちゃ。



取り戻すんじゃなくて、そこに おかあさん という要素を入れつつ

再構築する作業がひつようだ。