すべての和解よりさらに高いものを、意志は意志しなければならない(ニーチェ)


昔描きかけたこの絵は、未完成のままお部屋に飾られています。



あたしは、べつに そんな不幸でもないし
まぁ そこまで ちょうハッピーってほどでもない。






そう、前々から薄々感づいていたけれど
あたしは社交的だったり面白かったりするんじゃなくて
寂しがりやで 自分をよく見せたいから そう振る舞ってただけだったんだわ、きっと。

会話を続けるのとか挨拶するのとか 
あ、ぜんぜん得意じゃねーや 得意だったらいいなぁって思ってただけだ じぶんに期待して誤解してたんだ アハハ
と 思いました。


残念だけれどそれがホントならしょうがないし 認めてしまえば上手く行かないとき「まぁこれが自分なのよネ」って思えるようなればいい。 そんな自分でも安心できる環境があるなら なお ヨロシイ。





「自分を大事に」するべきだと、おもう。
語弊があっちゃ困るな。
自分を大事にするだとか、自分を好いているとか、 は、 自分を許すとか 甘やかす なんてこととは
ぜんぜん 違う。
なんだろう 自分に「求める」 ていうのが あたしの思う「自分を大事に」する感覚と近いかな。
正義も ルールも 許可も 愛も 楽しみも 充足も 意味も 意義も なんかいろいろ 
そういったことって、ぜったいにこれが正しいんだってことがないから 
最終的に自分が自分にあげなきゃ決して得られないものだと思うんだ。


「楽しい」も もちろん誰かと一緒に何かしてたのしいだとか何かを見て楽しいんだけど、
楽しんでいる、のは自分で、誰かが与えてくれた何かを楽しんだ自分の楽しいという感覚だから
楽しい は 自分の中で生まれるものだよね、


誰かが与えてくれるものだと思って、ないない、と思っているものを 自分に求めてみたら、

世界はちょっとかわってみえる。


それは別に自分磨きに奮闘する、と言うんでもない 変わるのはどちらかというと見方や思考だ。




「どうすれば良いか分からない」
 から 答えを人に求めたところで 人は 自分にとって正しい答えをくれるか?くれはしないだろう
何かいわれたところで、腑に落ちないかもしれない あるいは、すごく納得できるかもしれない いずれにせよ結局自分が決めるんじゃないか。

「何が正しいんだ?」「何が楽しいんだ?」「自分の存在とは?」
とかも 同じで 最終的に決めるのは じぶん 納得するか しないかは 自分

自分に求めて さまざまな他のものに触れて消化したりなんだりして でも最後には 自分で自分に与えなきゃ
だとしたら 自分を見ることを 怠っちゃいけないのだし
自分に問うこともおこたっちゃいけないし
その問いに耳をかたむけるのも怠っちゃいけないし
問いに全力で答えるために 様々なものを吸収する努力だって怠っちゃいけないし
吸収したものを消化して答えにつなげる作業も肝心だし

その繰り返し繰り返し
が 「自分を大事に」ということの肝心な部分じゃないかしら。

生きるってそうゆうメンタルの筋トレの繰り返しだよ。











苦しくない人なんて信じません。

苦しいだけの人も信じません。