intentionに就いて

emotionalなホンネが、theoryやらmindやらreasonやらposeやらで着膨れしてintentionとなり頭の中で鎮座しておられるが、nuclear emotionはきっと単純で、だがしかしそれを見るには、それの着込んだtheoryやらmindやらreasonやらposeやら やら やら やら とにかくゴチャゴチャとintentionを複雑化しているlayerどもを一枚一枚analizeせねばはぎ取れないわけで つまり結局intentionの把握がかなわぬまま表層のposeを直感と呼ぶか。



(emotionをcoreと仮定するなんて女の子的かしら?
でも真ん中のcoreは単純なemotionだけだと思うのだけどなぁ、という、結局 表層的直感。カッコワライ。カッコワルイ。)



願わくばnuclear emotionの救済というintention。
(救済は、happy endでなくても弾圧でも昇華でも消化でもまあ「折り合いを付けるということができる」ということなら何でも救済と呼ぼう)


エモーショナル・レスキュウ!

注:吐きたい人は部屋を暗くして近づいて見ましょう。




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私が何かゆっても、
そんなのシンリ学的に間違ってる、とか、ナントカ学では間違ってるとか、
○○学者のナンチャラさんはこう言ってるとか、
そう、指摘されるかもしれない。


ちかごろは科学が正し過ぎて知識が正義になってしまった?


正解がない学問もあるし、
そんなとき知識は正義や正解じゃなくて、思考のツールだから、

そのツールでワタクシはトモエ学を極めていくわけであります。


トモエはトモエ学者です。




あらゆる宗教や哲学やその他学問は 依存するべきシェルターではなくて、甘えられる正義でもなくて、

そゆの吸収して、オリジナルの宗派を作り上げてゆく、ということの、使うべきツールだと思うのですが




(生意気過ぎて懺悔寸前ですが)



あなたにもあなた学を追求して欲しいと思うのですよね どうでしょうかね

(へぇ すいません)



ニシシはニシシストで自分学者の権威なのです。