かくて例えば感情が空想的になるとすれば、

ニシシとバームクーヘン(はいろうずのアルバム)はよく似合う、のはちょっと悔しいなー!でも似合う。







「かくて例えば感情が空想的になるとすれば、
自己は漸次希薄になりまさるだけである。
ついにそれは一種の抽象的感傷に堕するにいたり、・・・

・・・それによって彼が漸次彼自身になるというのではない、
むしろ彼は漸次彼自身を喪失するのである」


キルケゴール




言葉をお借りしたけれど、私、こないだ ふわふわっと、暴走していて、「抽象的感傷」という嘘っこのニシシをかかえて居たけれど、
えいってしました(前回参照)。


感情はしかたないけど、それが空想的で、抽象的に、拡大する雰囲気となったら、だめなの、分かんなくなっちゃうだけなの、自分も、周りも、ただの抽象化された気分になっちゃう。
空想的な生存はクーソー的だ シットなのだ。



きるけごーる、「死に至る病」読みんぐ。
(このタイトル、誤解を招くきがする、「絶望についてわたしの知っている2、3の事柄」とかにすればいいのに笑)
面白いけど1行読むのに大いに時間を費やして一向にすすまない。



今日読んでいたところでバームクーヘンを思い出したのです



たとえでっち上げたような夢も口からでまかせでもいい、(想像力は一般に無限化作用の媒体である)
現実にかえていく、(「可能なるものとしての」自己は現実的にそこにあるのではなく、どこまでも現実化すべきものとしてあるにすぎないのだから。)
ぼくらはそんなかたち(自己を持つこと、自己であること、は人間に許されたる最大のこと=真実に無限なる許容)



ニシシと読書はたいせつです。





明日はブラウニー持って学校行くぞ。お菓子作りはある種のホラー。(こんなにお砂糖もバターもチョコも入れるのきゃあああ!)



ニシシの下半身もっと上手に描きたいな、かたそうなデニム履いてるあの子をちらちら観察してるのだけど(へんたい)