ニシシを一定の体型で描けません。誰かモデルになってほしいものです。細い長身の男性。描いてるうちに襲ってしまいそうだけれど。
わかった だとか 良いと思った
というだけで
あたかもそれが自分の価値のように酔いしれているだけでは結局何も出来るようになっちゃいないよ。
たとえばね、誰かの歌がとっても良いと思って それが分かる自分の感性と その歌を作れる作者の技量とは 違う
それはあたりまえすぎるな。
もっと赤裸々に踏み込んでみようか。
あたしはニーチェや安吾を読んでベリグーと思う、とてもスバラシイと思う、そうゆうふうに感じられる自分もまぁなかなかやるじゃねぇか、と思う。
でもあたしは何が発信できる?あたしは例えばニシシを描く
ちっぽけな落書き、つかみようのない中身、加えて伝わらない自己完結な産物
あれが誰かほかの輩の作品ならば、作品と呼ぶにも至らない、手遊びで、なにゴキゲンになってやがる、と言いたい。
あたしはニーチェと読み、坂口安吾を読み、感銘を受ける自分に無意識のうちにメダルをあげている。スゲーなオマエ、やるな、って思ってる。
もっというと、他の誰かよりすげーよ、って、無意識のうちにつけあがる。
けどそれは認識者のおごりにすぎないではないか。
認識者は、何も出来ない、いやらしい自愛心のカタマリだ。
認識しているにすぎないという、その意識すらなく 「自分って人よりすげーかも」 と密やかに思う輩のはびこりようと言ったらなんたることか。
彼らは認識者であって創造者ではない。
未だ
あたしは認識者であって創造者ではない。
創造者は自分の楽しみを知っている。
だから他人と比べておごる必要がない。認識の対象を要塞にし他人との隔たりにしてひきこもり、自己防衛にはげむ必要もない。
また、真の創造者は見物人を必要としない。なぜなら彼らの眼は自分自身に向いている。彼らの喜びは自分によって見物人のテンションが上がることではなく己のテンションがあがることなのだ。
認識者から意志者へそして創造者へ
思い立っただけで実行したと思い込みやがるな、バカめ、 と ニーチェがゆうから
まったくそうだぜ ふふ ああ あたしはもっともっとおっきくなる余地があるな、でもこれはとてもわくわくすることだ。
「すべての和解よりさらに高いものを、意志は意志しなければならない」
おれもっとでっかいハートを持つぜ!ってことだと解釈して、あたしはとってもわくわく元気になれました。
最近調子がいいです。きっととっても愛してもらってるからです。いいだろ。
愛してもらってるってね、なでなでしてもらってるとか良いセックスをしてもらってるんじゃ、ないよ。
かっこいいね、すてきだね、君の考えてることが好きだよ、君の作るものがすきだよ、なるほど僕もそう思うよ、でも僕はここはこう思うよ、たのしいね、うれしいな
だとかそんなようなことを言ってもらえて、そして言ってもらわなくても空気に漂わせて皮膚からそうゆうにおいを発している人がいるという、そんなような、ことだよ。