ふと、
あー、ー、そうだね、
中学生みたいに考えちゃうのは暇だったからだ。
張り合いが生まれるほどの何かが自分になかったとゆうか、
主体的になれる充実性がなかったとゆうか、
享受する義務しかなかったので、
ウックツとしてたんだなぁ。と。思い。
暇人で学のない哲学者は悲観的になる傾向にあるようで、
まぁ見事にペシャンコになりそうだったわけで、
けれども主体的な忙しさの中で、流されるのではなくちゃあんと自分で手足を動かして泳いでいると、非常にいいね。
そんなことを少し考えて、それから、
私が頭を使うのは夕飯のこと。
夕飯なににしようかな。
そしてそのことが朝、電撃的に、きらめいて、
これだ!となったこと。が、いまからの話。
そう、
そのときの人生の縮図なのだよ、夕飯は。
いま、私は栄養バランスをそれなりに考え、味噌汁もちゃんと添えた、お母さんのご飯、を毎日つくってる。
高校生までは、「お母さんのご飯」を作ってもらってた。
大学生になったら、自分用に、適当なご飯を作った。作らないことも多かった。
買ったり、友達と定食屋に行ったり、鍋したり、そんな夕飯だった。いきあたりばったり、その場の適当な夕飯。
社会人になったら、つまみとアルコールだった。
二年目くらいには、外にひとりで飲みに行くことも多かった。しれっとおごってもらうこともあった。
そんな人生だった。
自分では設計せず、楽しくなれる夕飯。人に出してもらう夕飯。
そんでお母さんのご飯をつくるようになった。
バランスがとれるような、健康に良さげな、計画的な、夕飯。
なんとも、そのときの自分の人生を上手く反映していて面白い。
いま人生でどんな具合かしら?と悩んだら、ここ1週間の夕飯を思い出してみるといいんじゃないかしら。
いそがしい?適当に済ませてる?
バランスがかたよってる?あまい?からい?
わたしは昨日、うちのひとと、いっしょに夕飯をつくった。