ふと今びっくりしたことに気がついたんだけどね。
私はずっと幸せになることって、
なんらか自分をアップグレードすることや、
自分の価値,アビリティを客観的に提示できることに関連していないと、幸せじゃないと思い込んでいたんだ。
好きなものを買うこと
好きになってもらうこと
とかも、
全部、好意というか、それを手にした自分がよりよくなるという結果を思い描いての消費行動。
(消費行動なんて言ったらとても物質的だけど、恋愛においてもそうだったのかも。)
だからなんかさ、それってプレッシャーが伴うんだよね。買った以上は、それをきちんとしないと、自分がアップグレードしないと。例えば、買ったレコードはちゃんと聴かないと、買うなら、自分にとってアップグレードになるレコードを買わないと。
たのしさももちろん大前提にあるけど、プレッシャーがセットなんだよね。あと、カッコつけてるとか、損したくないとか、なんか不純。
でも今私が求めるのは、
美味しいご飯
楽しい計画(SNSに、別に投稿しないようなとても個人的な計画)
植物の様子を見ること(特にこれも誰にも発信しない習慣)
前と楽しみの消費が違う。
消費ではないタイプの楽しみがある。
楽しみとともに自分があるというか。
ワインも好きでこれは投稿や交流に繋がっているけどこれ投稿したら交流にワインを使っているのではなく、
ワインが面白くて飲んでいたら、自然と投稿や交流が生まれた、
ワインの知識を増やすことも、誰かに語りたいわけじゃなくて、ただその方が、飲んだ時に楽しいから。
なんか昔、ひとりでレコードを聴いていた時も、そんな感覚があったかもしれない。でもだんだん、これは聴いとかなきゃとか、これを買えば私の好みを確立できるかなとか、人と話して共通の知識がない可能性を恐れたりとか、そもそも音楽をやる能力が無いのに参入する怖さとか
なんか色々発生してしまって
振り返ってみればそんなような感じのことがたくさん。今の仕事とか、着てる服とか、私の持ってるもの、人との関係(なんかひとりは孤独だから一緒にいる人を見つける、も好意の消費的だ)。
そうじゃない楽しさを、自分の隣に設置できることがおどろき。
お金を払って買ったものを、特に自分のアップグレードに結びつけることなくシンプルに、ただそこに。
よほどこちらの方がいわゆる消費行動なのだけど、この共存感、プレッシャーがない。良い。
消費とか、使ってるというより、共にあるんだ。楽しみと私が。
なんで今までこの楽しみ方を知らなかったんだろう。意味のない行為が嫌いだった。無駄で。
もう楽しいことなんて特段ないんだろうと思っていたけど
生きていると新たな気づきがあるのね。
すごく地味なことが楽しくなって、ありがたい。
すごく地味な気づきだけど、なんかまだ生きていける気がするほどのインパクトだよ。